『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』にならって

村上春樹さんのエッセイ『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』の序文にこんな文章があります。

“もし僕らのことばがウイスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む。それだけですんだはずだ。”

ウイスキーに限らず、私たちはなにかを説明したい時、言葉に頼るところが大きいです。確かに「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」と考えるとこれほどわかりやすいことはありません。
ですから私は、なるべく言葉ではなくウイスキーでこの本の紹介を行いたいと思います。
もし私のことばがウイスキーであったとして、この本に描かれているウイスキーの味や香りを楽しむ術となりますように。

スコットランド―――アイラ島の蒸溜所探訪記

アイラ島でのエッセイ

アードベッグ蒸溜所
アイラウイスキーを生み出すアイラ島の風土は、人によっては「寂しい」と感じるでしょうし、またある人にとっては「美しい」と感じる風景でしょう。
後者である村上春樹さんは彼の地をこう語ります。

“島でいちばん高い山の上に上っても、目に見えるのは荒寥とした海原と水平線と空と、よそ見ひとつせずに、急ぎ足でどこかに向かって飛んでいく素気のない灰色の雲だけだ。”

これを読んで「美しい」なんて一言も思ってないじゃないかと思われる方もいるでしょう。
全くその通りです。これは春樹さんが本の始めの方に書いている文章で、アイラ島を客観的な視点で描いた風景なのでしょう。
この後、春樹さんはアイラ島の探訪記をつづり、蒸溜所との出会いを描いていきます。
実際に島で見たもの口にしたもの、そして飲んだウイスキーによって文章は変化していきます。

“アイラは美しい島だ。家並みはこぎれいで、どの家の壁も見事に鮮やかな色に塗られている。(中略)こちらの心が少しずつ鎮まっていくのが感じられる。”

アードベッグ蒸溜所

アイラ島の街並みを見て、住む人たちとふれあい、その風土が造り出した「アイラの意志」ともいうべきウイスキーを飲むことで、春樹さんはアイラスピリッツに徐々に感化されていきます。

アイラウイスキーというのは特殊なウイスキーです。いえ、ウイスキーといわずに特殊なお酒というべきでしょう。
香りには独特の「煙臭さ」が備わっていて、また一方では「磯の味」ともいうべき潮風が感じられる風土の記憶を色濃く持ったお酒です。

“アイラに行けば、そしてしばらく滞在していれば、その匂いがどんなものかをあなたは知ることができる。その匂いを知れば、どうしてアイラのウイスキーがあんな味をしているのかが体感として理解できる。”

アードベッグは、アイラウイスキーの中でも特に個性が強く、これぞアイラモルトと言わんばかりのクセのあるウイスキーです。
しかし、クセがあるということは魅力を大胆に表現しているともとれます。
口の中で爆発するような荒々しさがあり、正にアイラ島を飲んでいるといった印象を与えてくれるのがアードベッグというウイスキーなのでしょう。

ゲール語で「小さな岬」という名のアードベッグ蒸溜所は、小さな湾に面した空と海と大地が広がる片隅にぽつんと立っています。ふと見ると景色と同化してしまいそうな建物内部にはアイラの魂が凝縮され、人々に潤いを与えています。
そして、人々はそのウイスキーを飲んでこう言います。「まるで口の中にアイラ島の風景が広がるようだ」と。

ボウモアの蒸溜所を訊ねて

ボウモア蒸溜所

春樹さんはアイラ島で二つの蒸溜所を訪れました。一つはラフロイグ蒸溜所、そしてもう一つがボウモアの蒸溜所です。奇しくも両者ともビームサントリー社が保有する蒸溜所です。どちらともにお話を聞き、春樹さんはこう語っています。

“同じ島の中にありながら、この二つの蒸溜所はおどろくくらい様相を異にしている”

同じアイラのウイスキーとはいえども、その造り方や味に一つとして同じものはありません。ラフロイグはラフロイグの、ボウモアにはボウモアの個性があり、それぞれのボトルに違った印象があります。
例えば、ラフロイグには薬品を思わせる独特の風味があります。しかし、その奥底には果実を思わせる甘みがあり、さっぱりとした海の趣きも飲む込むたびに感じられ、一言では語り尽くせぬ味と香りがそこにはあります。
対してボウモアには、燻製のようなしっとりした煙のイメージが漂い、また熟成された果実、ドライフルーツのようなとろみのある甘い風味、フィニッシュにはビターチョコレートのようなを味わうことができるでしょう。

“暖炉の火の前で、古く懐かしい手紙を読んでいるときのような静かな優しさ、懐かしさが潜んでいる。”

これは春樹さんの談ですが、そのような詩的な感覚すら感じられてしまうのです。
春樹さんはどうやらボウモア蒸溜所の方と親しくなったようで、造り方、歴史、造っている人たちのこと、その思いを文章にて語っています。彼はまた、ボウモア蒸溜所のマネージャーであるジム・マッキュエンと町外れで球転がし遊びをするほどまでに打ち解けていました。

“みんなはアイラ・ウイスキーの特別な味について、あれこれと細かい分析をする。大麦の味がどうこう、水の味がどうこう、(中略)でもそれだけじゃ、ここのウイスキーの味は説明できないよね。その魅力は解明できない。いちばん大事なのはね、ムラカミさん、いちばん最後にくるのは、人間なんだ。”

春樹さんはジムという人間に近づくことで、ボウモアの「大事な部分」を実感したのでしょう。
ボウモアは確かに美味しいウイスキーです。しかし、「美味しい」と簡単に言いきってしまっては語弊があるようにも感じられます。
グラスに注いだ時の黄金色の反射。手で回すとグラスの面に柔らかに残るウイスキーのとろみのある軌跡。鼻を近づけた時のワクワク感。舌に感じる心地よい刺激と甘い香り。後ろ髪を引かれるような喉ごし。
それら全てが一体となったものがボウモアであり、またそれ以上のものがボウモアなのではないかと思うことがあります。

ボウモアテンペスト

アイルランド―――知らない町のパブを訪れて

老人のタラモア・デューと、村上春樹のブッシュミルズ

アイルランドの街並み

春樹さんはアイルランドはレンタカーを借りてのんびり田舎を回って旅行していたそうです。

“まえもってとくに宿も定めずに、行き当たりばったりで、良さそうな宿をみつけて泊まる。”
“だいたい四時ごろには目的地について、宿に入りたい。シャワーを浴びて、ふらりと近所のパブに入る。とりあえず夕食前に黒ビールを1パイント飲む必要がある。”

アイルランドはビールが有名です。世界的に有名な『ギネスビール』があるこの国では盛んにビールが飲まれます。
しかし、当然ながらビールだけではなく、ウイスキーも有名です。
アイリッシュウイスキーはオイリーなフレーバーと、なめらかで穏やかな味わいを特徴とする、かつてはウイスキー生産量世界一を誇った伝統的なウイスキーなのです。
代表的なアイリッシュウイスキーは、ブッシュミルズジェムソンタラモア・デューといったとこでしょうか。
アイルランドの章では、春樹さんはタラモア・デューのことを書いていました。
ロスクレアという小さな町で、軽い食事の後、ホテルの近くのパブを訪れた彼はウイスキーを注文します。パブの中は町の人たちでにぎわっていて、春樹さんは『トニー・ヴェイッチの書いたもの』という小説を一人ぱらぱらとめくっていたそうです。

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“七十歳くらいの男がやはり一人で店に入ってきた”

ふと現れた老人は背広を着ていて、清潔そうな身なりでした。老人はカウンターに立って、ポケットから取り出したコインをカウンターの上に置きます。

“おそらく前もって、正確な金額をポケットの中に用意していたのだろう。”

老人の前には、タラモア・デューが差し出されました。老人は水で割ることも、チェイサーを傍らに置くこともなく、静かにグラスを傾けます。春樹さんは、きれいな身なりをした背筋のしゃんとした老境の男性が、なぜ夜の9時に一人でパブにやってくるのか想像をめぐらせます。

やがてタラモア・デューは飲み干され、老人は春樹さんににっこりとした笑顔を向けて、足早に店を出て行ったそうです。老人が飲んだのは一杯のタラモア・デューのみ。それ以上も、それ以下もなく、“ちょうど良いだけの時間で飲み干した”ことで、帰っていったのでしょう。
タラモア・デューのタラモア(Tullamore)は町の名前、デュー(Dew)は露を意味します。なめらかで穏やかな風味を持ち、フローラルで繊細な甘みのこのウイスキーは、正に露のように老人の体の中に染み込んでいったのでしょうか。

そして、春樹さんのグラスも飲み干されます。飲んでいたのはブッシュミルズ。ブッシュミルズは軽やかなフルーティさで、春樹さんを穏やかな眠りにつかせたといいます。
春樹さんは、その後の旅の途中でしばしば老人のことを思い出します。

“あのスーツをしっかりと着込んだ小柄な老人は、今頃もやはり、あの同じパブのカウンターで同じタラモア・デューのグラスを傾けつつ、何かについての真剣な考察をつづけているはずだ、と僕は確信している。”

“深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちら側を覗き込んでいるのだ。”とはニーチェですが、ふとこの言葉がそのパブでの一幕を想像して思い浮かぶところではあります。
春樹さんがタラモア・デューを飲む老人を見ている時、老人もまたブッシュミルズを飲む春樹さんを見ているのでしょう。老人と村上春樹、タラモア・デューとブッシュミルズの違いはありますが、しかし似たものを感じずにはいられません。

ブッシュミルズを飲む時は老人を想像して、タラモア・デューを飲む時は村上春樹を目の前に想像して飲んでみると、アイルランドでウイスキーを飲む気分が少しでも楽しめるかもしれません。

ブッシュミルズ10年

『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』を読んで

読むとウイスキーが飲むたくなるエッセイです。ぜひ読んでみて下さい。
随所随所に筆者本人による写真もあり、ウイスキーを飲みながらぱらぱらと流し読みするのも楽しみ方の一つでしょう。文章も平易で読みやすく、訪れた土地の雰囲気が伝わってくる作品です。
おそらく一番の楽しみ方は、この本に出てくるウイスキーを一緒に飲むことで味わえるのではないかと思います。

もし僕らのことばがウイスキーであったなら (新潮文庫)

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ABOUTこの記事をかいた人

陣内

北海道生まれのフリーライター。 ウイスキーと小説のマリアージュをどうしても流行らせたいと思っているアラサー。最近バーボンの奥深さに気付き、バーボン党に。 お酒はいろいろ嗜むが、結局ウイスキーに戻ってしまう様子。強くはないんでインスタントに酔っぱらえるのは利点。誰か私にお酒をください。